生涯にわたって晴れやかな顔をしていたいなら、お前の心に従え





 どこかで子供が泣いている。それもかなりの大声で泣いているので、ひどく頭に響く。日差しが強いので目を閉じると、泣いている子供の姿が脳裏に思い浮かぶ。子供は涙を流している。止まることを知らぬかのように、次から次へと泉のようにあふれ出ている。まだ生白い喉が息の多さに追いつけなくて何度も引きつき痙攣する。声も途切れ途切れだというのに、それでもひどく煩い。
 目は、暗闇で見えない。真っ暗で底なしだ。どこまでも深いというのではなくて、奥のない瞳だ。光を何処までも吸収して、何も帰ってくるものがない。だから真っ暗に見えるのだ。声が頭の裏を劈いていく。金切り声だ。何もかもをなぎ倒し、そうする事で何かを訴えているのだ。 
 目を開けると太陽の光が目を差した。せみの声がする。夏が怪談で盛り上がるのは、涼しさを得るためだけれど、もしかしたらこの世とあの世の境界線みたいなものが薄くなっていて、幽霊もやってきやすいのじゃないだろうか、それにお盆もある。

 緑色のタラップ。青ざめた夜明け。赤い太陽。黄色の花。
 どうしたら癒えるのでしょう? 時間、時間、時間です。膨大な、時間、時間、時間です。

 くっと、承太郎は喉の奥で笑いをかみ殺した。霊園に行くまでにある花屋にはいつも、五百円刻みで仏花が売られている。白に黄色に、菊の花はそれ以外ではあまり見ることもないな、と思いながら広い敷地を歩き続ける。参道から少し外れたところには何故だか幼稚園がある。入り口は寺に繋がっているわけではないが、こちらからは飼育小屋が見える。ウサギが十数羽、鼻を引く付かせながら息を潜めている。
 太陽は空の真ん中にあり、遠慮なくその力を発揮している。テレビでは最高気温は三十八度だとか九度だとか、猛暑だ、記録更新だ、とせわしない口で騒いでいた。気温に負けてか、お盆だというのに人はいない。
 ウサギは小屋の影の中で、じっとこちらを見つめている。餌はもっていないな、と承太郎は思った。初めて来たわけでもないのに、そういえば餌をやろうと思ったことがなかった。夏の長い休みの間、ウサギ達はどうやって食料を得ているのだろう。職員がついでに世話でもしているのだろうか。
 参道は大きな木がそこら中に生えていて、太陽などそ知らぬふりだ。草の青臭い匂いがそこかしこからしていて、持っている花の匂いなどかすかなものだ。本堂が近くなると、少しずつ線香の匂いが混じるようになる。大きな鐘を横目に、門をくぐれば、木立を抜ける。敷き詰められた白石が太陽の光を反射している。
 承太郎は目を何度か瞬かせて、ゆるく息を吸った。花屋で買った花束は暑さで萎れ始めている。

 子供の泣いている声がする。大きな声だ。聞いたら誰もが頭を痛めそうな金切り声だ。まるで母親に置き去りにされた嬰児のような泣き声だ。この先も、後もない、たった一つの乾いた声。

 承太郎はいつも、墓の場所に行くまでに手間取ってしまう。参道の広さとは打って変わって、敷地は狭い。そこに所狭しと新しい墓ばかりが立てられているように見える。どれもワックスを塗ったみたいにピカピカで、同じような装飾文字で書かれている。後ろに差し込まれた卒塔婆は木で出来ているのか、苔むしてはいないが、それなりの年月を感じさせる。
 ようやく目的の墓を見つけて承太郎はため息をついた。暑い中で歩き回るのは、その時間帯を選んだのは自分ではあるが、あまり好きではない。もうすでに花立に花は供えられていて、香炉には燃え尽きた線香の跡があった。お盆なのだから、墓参りはするだろう。それが、何故死んだのかわからない、息子のものならなおさら。
 承太郎はもう一度ため息をついた。ため息をついて、そういえば線香を買ってこなかったことに気がついた。花よりもそちら方がましだったな、と思い、今自分が持っている花をどうするべきか思案したがどうしようもなかった。花を手向けられる場所はもう占拠されていて、それを押しのけてまて手向けるようなものではないだろうと思ったからだった。
「やれやれ、だ」
 眩暈がしそうだった。蝉は夏の暑さにまけまいとじわじわとないている。帽子のつばを開いていた片方の手でおさえて、まだ真新しい気がする卒塔婆や、刻まれたばかりで消え入りそうな名前を何をするともなく眺めた。
 そうして唐突に、参道のはずれのウサギのことを思い出した。無駄になったこの花をウサギにでもやるかと思ったのだった。小屋のひんやりとした影でうずくまり、目だけを光らせるウサギにでもやればよいのだと。

 やはり子供の泣き声がした。子供はただ立ち尽くし、両手をだらりとたらして、泣き喚いていた。真っ暗闇の眦から飽和した涙が頬を伝い、首に流れて、消えていった。喉が痙攣し、声は掠れ始めている。
 承太郎は顔をしかめた。子供の声があまりにも煩くて、頭痛の種になりそうだったからだ。蝉の声が遠くなり、近くなりを繰り返し、それに同調するように声がひどくなる。まるで錆びかけたのこぎりで、無理やりプリキをきっているかのような声だ。
 この先も、この後もない、たった一つの絶望。

 傷が癒えるのには何が必要でしょう? 時間時間、時間です。圧倒的に膨大な、時間時間、時間です。