空飛ぶ鯨は夢の中







 鯨は夢の中を飛ぶ。猫は箱の中で眠る。真実はいつも深奥で眠っている。夢は真実を語らない。

 空があんまりにも青くて、ぼんやりと口をあけて眺めていた。蛍光色のブルーのペンキをぶちまけたみたいにのっぺりと青いので目が痛い。瞬きを一度、二度、繰り返していたら涙が滲んできたので空を見るのをやめた。足元には黄色いレンガの敷き詰められた道が地平線の果てまで続いている。ぴっちりと敷き詰められたレンガの上にはてんてんと正方形の白い塊が落ちていた。一定間隔で、ぽとりぽとりと置いてある。
 一つ手にとってしげしげと眺めてみると、そこには黒い小さなインク文字でこう書いてあった。
 いつでも家に帰る事が出来る
 仗助は首をかしげて、それを持ったまましばらく歩いてもう一つの白い箱を拾った。それにもやはり今度は手書きの小さな文字で文章が書いてあった。
 昔を懐かしむとき優しい気持ちになれる
 インク文字であったり、手書きの文字であったりしたそれはどれも小さく、また短い文章だった。一つ一つ拾っていたら手の中いっぱいになってしまったので、仗助は拾うのをやめて、これを落とし続けているのだろう誰かを探すことにした。正方形のブロックは積みやすく、小さな文章が書かれたそれをレンガ道の上において、転々と落ちるそれを辿って走り出した。
 レンガは固く、道は長かった。空は青く、雲ひとつない。不思議と息は切れなかったので、妙に軽い手足を全力で動かすと、上から白いそれが落ちてきた。仗助はそれを拾う。するとやはり文章が書いてあった。そこには、家族が病気の時、なにもかもを投げ出して帰る、と書いてあった。
 空か、と仗助は思い、上を見上げる雲ひとつなかったはずの目に痛い空に小さな雲が浮かんでいた。真っ白で細長く、蠢いていて、それは良く見ると見覚えのある人物だった。
「承太郎さーん」
 そう叫ぶと、暢気にぷかぷかと浮かんでいる承太郎は、おう、仗助か、とまるで道で偶然であったときのように答えた。
「そんなところでなにしてるんスかー?」
 心持ち声を張り上げながらそう聞くと、承太郎はすこし沈黙した後で、整理していたら浮いてしまった、と大して大きくもないのに良く通る声で答えた。
「整理ってなんのですか?」
 仗助の言葉に承太郎はしばらく胸元でてをさまよわせて、どこからともなく白い正方形を出して、それを落とした。反射的に受け止めてから承太郎を見ると、彼の掌が良く見えた。正方形にはインク文字でなにやら文章が書いてあったが仗助はあまり読む気にもなれずぼんやりと承太郎が浮いているのを眺めた。相変わらず雲ひとつない空は目に痛いばかりだ。
「これって一体何なんすか?」
「お前にもあるぞ」
 承太郎の言葉に首をかしげて胸元を見るとそこには両開きのクラシックな扉がついていた。洋館の入り口とかにありそうな、使い込まれた飴色の扉だ。おそるおそるそれをあけると、中にはぎっしりと正方形が詰まっている。仗助は驚きながらそれを取り出すと、そこにはやはり小さな文字で文章が書いてあった。
 友達と学校から家に帰るとか、母親には会おうと思ったら会えるとか、友達と遊びに出かけることが出来るとか、ゲームはお金があるかぎり好きなものを買うことが出来るとか、髪型を毎朝決めることができるとか、取り出しては読んでみてもどれもささいで下らない日常だった。
 仗助は読んだそれを承太郎のように捨てる気には到底なれずに、また大事に慎重に胸の扉の中に戻し、扉を閉じた。すると扉は馴染んであっというまに見えなくなった。承太郎はそれを見ながらこれっぽちも普段と変わらない声で続ける。
「それを捨てていたら浮いた」
 仗助は答える言葉を一瞬なくして、それからしばらく口をもごもごさせた。何かをいいかねて、そうっすかーと呟いた。
「なんか捨てちゃやばいもんだったんじゃないすか?浮いちゃってるし」
 そうだな、と承太郎は答えたが何をするわけでもなかった。今更捨てたものを拾いにゆくのは難しい。
「そのままどこまでものぼってっちゃったらどうするんすかー?」

「いいや、その心配はするのが無駄というものだ」
 唐突に低い声がして、仗助は驚いた。声のしたほうを見るとそこには真っ暗な穴があった。何時の間に出来たのか、全くわからなかった。見つめていると穴の中から真っ白な腕が一本現れた。穴の周りには何かが蠢いているらしく、白い腕は赤黒いものに絡みつかれて斑模様になっていた。
「なっ…」
「奴の足には重い重い、鎖がついているからな」
 真っ白な腕には、当然のことだけれど掌がついていて、それはどことなく承太郎のものに似ているように仗助には思われた。その掌は小さく、けれどとても重そうな鉄球が乗っていて、鉄球についている小さな糸のような鎖は空にのぼって承太郎の足につながれているのだった。
「その代わり、お前のように歩けもしないがな」
 穴の中で、男は笑った。穴は覗き込んでも、何処までも暗く二の腕から先は何も見えなかった。蹴ろうと思い立つ前に腕はゆるゆると穴の中に戻って、どこまでも底のない暗闇とそこから伸びる鎖だけが、その手の存在を思い出させた。

 見上げると承太郎はやはり胸の中を整理し続けて、白い正方形をどんどんと落としていっているのだった。少しだけ前に進んだ承太郎の落としていく正方形を仗助は拾い、やがて腕の中はいっぱいになり、拾っても拾っても、腕の中からこぼれていくことになった。
「承太郎さん、きっとそれ捨てちゃいけないものなんすよ。捨てるのやめませんか?」
 正方形の文章はどれも他愛なく、些細で下らない幸福の文章だった。仗助の言葉に承太郎は仗助のほうを見て不敵に笑った。じゃらじゃらと、鎖の音がしていた。もう見えなくなった穴からはしかしどこまでも長く続く鎖が光にあたって瞬いている。
「承太郎さん、捨て続けるの、よくないっすよ」
「大丈夫だ」
 なにせ、鎖がついているからな、と承太郎は何でもない事のようにいい、おそらく彼自身にとって鎖が付いていることなどどうでも良い事なのだろうと仗助は思った。思ったが、しかし。
 見上げるには空が青すぎて、すこし涙が出てきてしまう。