サーカス










 それから ぼくは はった あかるいほう へ


 サーカス



 東方仗助はなんとも不満のある顔をして、喫茶店で岸部露伴と向かい合っていた。冬の空は薄い青をしていて、薄い陽光はそれでも暖かいが風は寒かった。ため息をつくと目の前の男が嫌そうな顔をした。
「なんだかつまらなそうじゃないか」
「別に、つまらなくはないっすよ、ただ」
 どうしてあんたに話さなきゃいけないのかと思っただけ、と仗助が付け足すと、露伴は眉をひそめた。
「別に話さなくてもいいんだぜ、お前が僕に借りてる金をいますぐに返すならな」
 ありゃ、しょうがないことじゃあないっすか、と仗助は露伴の言葉に唇を尖らせた。運ばれてきたばかりのコーヒーは湯気を立ててテーブルの上に乗っかっている。。露伴は仗助の言葉にはっ、と嘲笑をもらしてから、尊大に口をひらいた。
「むしろ、感謝してほしいぐらいだよ。お前の話で、ちゃらしてやろうって言ってるんだからな」
「どうせ、漫画の材料にするんだろ」
 当たり前だろ、と露伴は冷え切ったコーヒーに口をつけて言った。
「じゃなきゃ、金をチャラにするなんていうもんか」
 露伴の言葉に、仗助は舌を鳴らして、頭をかいた。金は近いうちに返すっていったじゃないっすか、と付け足すと、露伴は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「悪いが、僕は隠されれば隠されるほど聞きだしたくなるタイプでね」
 だいだいお前の近いうちっていつだ、とも返されたので仗助はため息をつく。喫茶店の中は暖かいが、窓の外に目をやれば寒さにコートの襟の建てている人間が足早に歩いている。露伴はすでにペンを持って、ノートを広げていた。
「さぁ、聞かせてもらおうか」
 仗助は観念して大体記憶も曖昧なんすよ、口を開いた。青空には薄い銀色がかった雲が顔を出し始めている。
「随分前の冬のことなんすけどね」

§

子供の話

「はい、どうぞ」
 駅前で、鼻を寒さで赤くした少女に突然チラシを渡されて、仗助は驚いて立ち止まった。少女は立ち止まった仗助に逆に驚いたようで目を丸くして、すこし笑う。そうしてもう一度同じ言葉を繰り返した。
「はい、どうぞ」
 仗助は少女が差し出した紙はあまり色味のない代物であることが仗助の目の端にひっかかる。けれど繰り返して言われた勢いに負けて思わずチラシを受け取ってしまった。チラシを受け取るときに触れた指先があまりに温かくて仗助は驚く。しゅるりと糸のすれるような音が耳に引っかかる。作り物の花を襟や髪にこれでもかと乗せて、薄紫のワンピースの裾をひるがえす少女の姿は遠くからでも目を引いた。なにより少女はかわいかったし、その後ろにはにこにこと笑うピエロが一人、風船を持って立っていた。
 仗助はチラシよりも、風船のほうが気にかかる。ピエロはそんな仗助の視線に気がついたのか、大げさな仕草で青い風船を一つ手渡して、頭を撫でた。ピエロの手は冬の外気に冷えて冷たい。少し離れた場所では楽器をもった幾人かが、さぁかすがいせーんと大きな声で言い、ふぁらふぁらと陽気な音楽を鳴らしている。
「よければ、きてくださいね」
 すこしおぼつかない口調で少女が言う。そこで、じゃあまた、というようにピエロが大げさに手を振った。少女も、どうぞ、と別の大人にチラシを渡し始め、仗助は風船を一つ手に持ったままぼんやりと家路についた。
 家に帰ってチラシを見ると、白い紙の真ん中に小さく赤い天幕が書いてあった。サーカスの名前と、始まる日が地味な文字で印刷されていた。天幕の中は真っ黒く塗りつぶされている。
 サーカスと仗助は紙を見ながら想像した。動物たちが火の輪をくぐり、空中ブランコが揺れて、ピエロが玉乗りをする。サーカス、と呟くとわくわくとしていてもたってもいられない気持ちになった。
 一人で床でごろごろと転がると固い何かにぶつかって、顔をあげれば父親が何をしているんだという顔で覗き込んでいた。
「じじぃ、サーカス来るんだって」
 サーカス? と仗助の父親は呟いて、チラシを手に取った。自分と性格がよく似てお茶目な父親、名をジョセフというのだが、を仗助はとても好きだったからきっと気になると思ったのだ。
「こんなところにまで来るのか」
 チラシには、場所が明記されておらず、どこにあるのかわからずじまいだ。その上、チケットの値段も書いてはいない。近日公開、お楽しみにと真っ黒な文字が躍っている。
「行きたいなー」
 仗助が床に転がったまま、自分がぶつかったジョセフの足にしがみつく。ジョセフは笑いながら仗助の手をとると、仗助はそのままおとなしく立ち上がった。
 うーん、とジョセフは思案気な顔になる。
「よし、じゃあ、どこでやるかわかったら連れて行ってやろう」
 にかっと笑うジョセフに仗助は、大きく頷いた。約束しようかと小指を出されたので、指きりをする。楽しみだ、と考えて仗助は、そういえばこのチラシをくれた少女がどんな顔をしていたか必死に思い出そうとしてみたが、さっぱり思い出せなかった。思い出せるのは花をたくさん飾り付けたその子から、日常ではない物の匂いがした、ということだけだった。
 青い風船が部屋の隅、天井でつかえて頼りなく揺れている。