美しい海をみた







 ホテルの部屋は高い所にあるわけではないけれど、その代わりに海から昇る朝日を見ることができた。真っ暗な空がやがて水を流し込まれるように青くなっていき、青みの強い赤が雲の合間に混じり始める。雲の下側が太陽の光に照らされて真っ赤に染まっている。空の天辺の美しい紫色が駆逐されて、いつの間にか白みがかった青になっている。  
 交じり合う色を花京院はいつもホテルの窓から眺めていた。何も考えずに眺める視界の端で承太郎が寝ているのを花京院はぼんやりと認める。承太郎自身が夜明けの時間に起きている事は稀で、起きていたとしても窓から外を眺めている花京院に目をくれることはあまりないから、彼が朝日を目にすることもない。花京院はいつもただ一人で刻々と変わる空を見ている。  
 空は青ざめた鋼の色をしていて、まぶしく花京院の目を射った。一日が始まる景色は花京院には明るすぎて今では上手く馴染めなかった。美しい太陽の赤い色はそのまま世界を支配する傲慢さにも見え、忌々しい。  
 開かれたブラインドから容赦なく差し込む光に承太郎はうめいた。花京院はその眠気による柔らかな声にゆっくりと笑う。薄い皮膚の上を無遠慮に歩くような幸福な気持ちだった。夕焼けを花京院は殊更に嫌っていたからホテルの窓から朝日しか見えないことは好ましかった。  
 ほとんど毎朝、窓に寄りかかりながら花京院は刻々と変わる空を見続ける。そうして彼は毎日自分が死んだ日のことを思い描いた。  
 腹に大穴が開いた感触や打ち付けられた背中の痛みや、声を出す暇さえなく越えた生と死の境を思い出した。DIОのスタンドの秘密をただ一心に考え続けた自分が花京院は嫌いではなかった。間違いない充実感だった。  
 生きて日本に帰れなくてもよかったのだと言えば嘘になる。  
 花京院は真実、日本に帰りその後の人生を歩みたかったし、承太郎と共に色々な所に行く約束をしていた。映画を見に行こう、学校を案内してくれよ、君と同じ学校だなんて、うれしいね。  
 窓に寄りかかりながら、旅の様子を思い出すとあまりにも他愛なく花京院は邪気なく笑ってしまう。あの頃の全ては他愛なく優しいし、おだやかだ。  
 死ぬ寸前の間延びした時間のことを花京院はいくらでも思い出す事が出来た。あの時間の中で花京院は一欠けらだって承太郎のことを考えなかった。今までの人生も、これからの未来も、全ての価値と意義も、何も考えなかった。時折花京院はそれを承太郎にぶちまけてしまい衝動にかられた。  
 僕は死ぬ時に君のことなんて考えもしなかったよ。  
 花京院は口を動かす。声は伴っていなかったので、その言葉は誰にも、どこにも届くことはない。窓に頭をあずけて目を閉じるとすぐに意識が深海のような暗く冷たい場所に飲み込まれる。花京院に眠りなど存在しない。意識は体と結びつかず、感覚は消えうせてまるで現実味が感じられない。  
 ここは本当に現実だろうか。  
 花京院は目を見開いて、朝焼けの海を眺める。波間に爪をたてるように点々と赤い光が残っている。世界を支配する傲慢さは正しく目を射って、ここが現実なのだと刻み付ける。承太郎は眩しさに耐えられなくなったのか、声を漏らして瞼を持ち上げた。花京院はその様子をみて、柔らかく笑う。承太郎はその表情を認めて、わずかに口の端をあげる。その表情が苦笑なのか微笑みなのか花京院には判断できない。
「おはよう、承太郎」  
 声が正しく空気を震わせ、承太郎の鼓膜に届いているかの確証を花京院は持たない。承太郎は眠そうに瞬きをしながら首を花京院の方に向ける。  
 1999年の初夏の、エジプトの旅からもう十年近くたった朝だった